
弁護士 岩出 誠(ロア・ユナイテッド法律事務所)
2002.08.26
(1)企業における人材開発投資の必要性
最近、成果主義・能力主義人事制度が喧伝され、その反映として、即戦力・能力のあるキャリア採用・中途採用も増加しています。しかし、未だに、新卒子飼いの人材に対して企業により、OJTを中心とした企業内外の様々な研修を経て育成していく長期雇用制度は、少なくとも大手企業のとりわけ幹部候補の総合職クラスの人事制度としては大きな位置を占めています(なお、職業能力開発促進法4条は、「事業主は、その雇用する労働者に対し、必要な職業訓練を行うとともに、その労働者が自ら職業に関する教育訓練又は職業能力検定を受ける機会を確保するために必要な援助その他その労働者が職業訓練、職業能力検定等を受けることを容易にするために必要な援助を行うこと等によりその労働者に係る職業能力の開発及び向上の促進に努めなければならない」としており、人材開発は、努力義務とは言え、企業の責務でもある)。またそのような新卒採用の場合でなくとも、とりわけIT、ナノテク、バイオ等の先端的技術分野や金融商品の開発等の分野においては、従業員に対して、常に最新の技術を習得させ企業の国際的競争力を維持・向上させるべく、様々な研修を受けさせることは少なくありません。
(2)人材開発投資に関するリスクヘッジに関する問題の多発
そんな中で、従業員に対して、通常のOJTや一般的な技術研修ではなく、企業が、労務の提供を免除して、高額の学費等をかけて、専門学校や国内外の研究施設、大学・大学院等への教育を受けさせたり、海外のMBA (経営学修士)、弁護士やCPA(公認会計士)等の資格を取得させることが従前から行われてきました。ところが、そのような多額の人材開発投資資金を注ぎ込んで育成し研修を修了した従業員が、研修の修了や一定の資格を取ったとたんや、復職後わずかで退職してしまうというようなことが起こったときに、トラブルが発生します。
例えば、企業が、従業員に対して、特別に目をかけて、優遇措置として、研修等を受けさせた人材開発投資費用の返還請求や、投資資金・費用の回収までの期間の退職を認めないなどといったことを従業員に求め、これを従業員が争そうといった形態が典型的な紛争です。
そこで、このような場合、従業員のために支出した研修費用などを返還させる方法はないか、又、このように特別の便宜を与えて研修させた従業員を安易に退職できなくさせる方法はないか、という問題につき、裁判例を参考に検討してみましょう。
しかし、いまだ最高裁判例が出てはおらず、判例全体も必ずしも整合性・統一された判断を示しているとは言えませんが、多数の判例・学説は、概ね、以下の通り、一定の条件・範囲・方法の下での研修費用の返還を認めています。即ち、研修修了後の一定期間内の退職の際に、一般の従業員が受けていない特別な便宜としての給料以外の授業料など客観的・合理的に算定された範囲での実費の返還を、合理的な方法で求めたり、一定期間後はその返還を免除する制度は、そのことが就業規則等に明記されているならばG2のような違法の問題を生じないと解されています。
この判断を示す先例といえる藤野金属工業事件(大阪地判昭43.2.28 高刑21-1-85)では、溶接技師資格検定試験の受験を希望する労働者に対して技能訓練援助を施すに際し、「1年間は退職しない。退職する場合は、受験のための練習費用等として3万円を支払う」という誓約書をとったことが「費用の計算が合理的な実費であって、使用者側の立替金と解され、かつ、短期間の就労であって、全体としてみて労働者に対し雇用関係の継続を不当に強要するおそれがないと認められ」、「労基法第16条の定める違約金又は損害賠償額の予定とはいえない」とされました。
同様の判断は、傍論の中ではありますが、日本軽金属事件(東京地判昭和47.11.17労判1654-40)でも判示されています。即ち、同判決では、留学費用の返還義務を定める留学規則規定がありましたが、そこでは労働者が留学費用を返還していたため、その規定自体の適法性は問われなかったものの、「留学社員に対し留学終了後一定期間の勤続義務を課すのであれば、海外留学規則中にその旨明確な規定を設けるかないし明示の合意をすべき」としており、明確な返還合意があれば、返還を認める趣旨が示唆されていました。
更に、河合楽器製作所事件(静岡地判昭和52.12.23労判295- 60)では、退職者に対する技術者養成所の授業料貸与金の返還請求が認容されています。ここでは、雇用前に会社付属ピアノ調律技術者養成所に1年間入所するに際して、その月謝(1万円、計12万円)を会社から借り受け、なお「貸与金は退所時に全額返済する。退所後会社に就職する場合には退職時まで据置貸与を受ける」旨を約束した労働者が、退職後に会社から貸与金の支払いを請求された、というものでした。同判決は、労基法16条違反を否定するに当たり、本貸与金契約と雇用契約は別個の契約であって、労働者は退所後会社に就職しないことも、就職後退職することも自由であった上、月謝の額も特に不合理な金額ではない、などの事実に照らして、退職の自由を不当に制限したものとは認め難いとしています。
なお、研修費用の返還の事案ではありませんが、詩織事件(東京高判昭和48.1.21判時726-99)は、ホステス採用時の契約金の返還につき労基法 16条、17条(前借金相殺の禁止)の違反はないとして、契約金の返還義務が免除される勤続1年未満で退職したことを理由とした返還請求を認めています。
近時の例でも、長谷工コーポレーション事件(東京地判平9.5.26労判717-14)は、海外留学の学費・渡航費の返還につき、これらの返還合意は労働契約とは別個の免除特約付消費貸借契約として有効としています。
又、最近でも、野村證券事件(東京地判平成14.4.16)は、「早期に自己の都合で退社した場合、費用を返還させることを会社側に認めないと、企業は海外留学に消極的にならざるを得ない」と判示し、かかる特約の有効性を認めています(平成14.4.16労判827-40)。
これに対し、研修・指導の実態が、一般の新入社員教育とさしたる差がなく、使用者として当然なすべき性質のものである場合には、それに支出された研修費用の返還を求めることには、合理性がないとされます。
例えば、サロン・ド・リー事件(浦和地判昭61.5.30判時1238-150)では、美容室を経営する会社に職種を美容等とする準社員として就職した従業員が右会社との間で締結した、会社の美容指導を受けたにもかかわらず会社の意向に反して退職したときは入社時にさかのぼって1カ月につき金4万円の講習手数料を支払うという契約につき、「本件契約の目的、内容、従業員に及ぼす効果、指導の実態、労働契約との関係等の事実関係に照らすと、...指導の実態は、いわゆる一般の新入社員教育とさしたる逕庭はなく、右のような負担は、使用者として当然なすべき性質のものであるから、労働契約と離れて本件のような契約をなす合理性は認め難く、しかも、本件契約が講習手数料の支払義務を従業員に課することにより、その自由意思を拘束して退職の自由を奪う性格を有することが明らかである」として、労基法16条に違反し無効とされています。
なお、第二国道病院事件(横浜地裁川崎支判平成4.7.31労判622-25)も、基本的には、この範疇に入れて考えられるものです。ここでは、マスコミや医療労連等からその改善の必要性が叫ばれている看護婦見習の准看護婦学校通学関連費用に関するいわゆるお礼奉公と返還義務の関係・範囲と超過労働賃金義務の存否につき争われ、具体的には、准看護婦学校卒業と同時に退職したY看護婦見習に対して、X病院が奨学金手当、入学金、授業料等として支払った金員は立替金に当たるとして、その返還を請求した病院側の請求が、労働の対価である賃金の一部とされたり、返還義務のない立て替え金として、科目別に返還義務の存否が判断され、返還請求のごく一部のみが認められました(この事件は、控訴審で和解にて解決。この判決に関しては、拙稿「看護婦見習の通学関連費用に関するいわゆるお礼奉公と返還義務の関係・範囲」ジュリスト 1047-125参照)。
又、最近では、一歩進んで、使用者が自己の企業における技能者養成の一環として業務命令で海外分社に出向させ、業務研修させた富士重工事件(東京地判平 10.3.17労判734-15)やビジネススクールでの研修を命じた新日本証券事件・東京地判平10.9.25 労判746-7などでは、諸費用の返還合意が一定期間の業務拘束を目的とした違約金の実質を持つものとして違法とされています。しかし、富士重工事件(前掲)は、第二国道病院事件・前掲と同様に、出向先の業務に就いている点で、従業員の受けた金員は給与に外ならず、返還の対象とならないのは当然と考えられますが、新日本証券事件(前掲)は、業務に従事したものではなく、ビジネススクールでの研修であり、G3で紹介した長谷工コーポレーション事件(前掲)や野村證券事件(前掲)との整合性を欠くものとして疑問が残ります。
ここで、労基法16条違反とならず、一定期間の就業をしなかった従業員から人材開発投資の返還や求めるための条件としては、どのような明確な合意があれば、どの範囲で返還が認められるのか、判断要素として想定される要件は何かを、従前の判例・学説を踏まえて、再検討してみます(拙稿・前掲ジュリスト 1047-125以下参照)。
まず、共通して挙げられるのが、[1]立替金又は金銭消費貸借としての明確な合意の存在と(個別のみか規程によっても良いのか)、[2]その合意において、返還義務そのものの存在、返還方法、返還開始時期等などが明確に合意されていることです。
しかし、これらの要件が満たされれば、全て返還が義務づけられるわけではありません。明示の有無にかかわらず、[3]返還すべき範囲を確定する基準として、合理性が要求されています。つまり、「客観的、合理的に算定された範囲で合理的な方法で返還を求める」場合のみ返還義務が認められるのです。
この合理性の具体的内容としては、未整理ながら、以下のような要素が考えられます。これらの要素を総合しての有効性の有無・範囲を判断することになるでしょう。
(a)実費を超えることはできません。「費用の計算が合理的な実費であり、使用者の立替金と解されること」が必要です。この点、外部研修機関等への就学や委託費用などでは実費の算出が容易・明確となりますが、外部研修等であるからといって他の要件との関係で返還義務を認められない場合もあります。
(b) 従業員全体への一般的な技能者養成の一環としての就学費用やOJT関連費用の返還は認められ難く、特定の労働者に特別の便宜として技能修得をさせるような場合には返還義務を認めやすいでしょう。
(c)退職後の汎用性の高い技能、外部労働市場における客観評価が容易な場合については返還義務を認めやすく、当該企業のみに通じる特殊技能では返還は認められ難いでしょう。例えば、MBA、CPA、弁護士、准看護婦看護婦等の資格・技能等については汎用性が認められるでしょう。
(d)企業への技能向上等による貢献度に応じた費用の労使間の分配が、(c)の労働者の取得した資格等の外部労働市場価値とのバランスから考えられ、研修等の後の企業への勤続年数等に応じた返還費用の減額等の調整の必要があります。特に、海外留学のような金額が高額に及ぶ場合、返済義務の範囲が一定限度に限定される場合があるでしょう。
(e) 返済免除条件としての勤続期間の長さが問題とされ、勤続年数1年以下程度の拘束は認められやすいでしょう。
(f) 研修・就学時間に対する通常の賃金が支払われている場合には追加された実費について返還義務を認めやすいでしょう。
(g)労働契約上から指示命令等により強制された度合が強い就学等の費用については返還が認められ難く、希望者の自発的な意思による場合には返還義務が認められやすいでしょう。第二国道病院事件(前掲)のように雇用契約締結の時には明確でなかったにもかかわらず、締結後に選択の有無なく費用返還義務ある研修とされる場合には返還が認められ難くなるでしょう。
(h)一般的な労働市場においても労働者の負担とされる福利厚生施設関連費用については、返還義務が認められやすく、通学費等の就学・研修等に密接不可分なものは、それが業務に関連する度合が高く、明確な返還合意がない場合には返還義務が認め難くなるでしょう。第二国道病院事件(前掲)の布団代金のような社宅等の関連費用的なものは返還義務ないものと認められやすく、看護学校の制服代などは返還義務が認め難くなります。
(i)明確な返還合意なき場合や右の事情の総合的判断の結果返還合意が無効とされた場合の現実の使用者の出費については、不当当利得等による返還請求、若しくは、右の如く、黙示の立替払の委託に基づく個別出費についての合意(準委任としての立替金)を擬制して返還義務を認め得るか各費用につき判断することとなるでしょうが、その場合の返還すべき範囲の認定に関しては以上の(a)~(h)の要素が、返還請求権の範囲を画定する際の要素としも用いることができるでしょう。
以上
(C)2002 Makoto Iwade,Japan
ビジネスガイド 平成14年8月号掲載