問題
運送業を営んでいる当社の従業員が、得意先へ赴く途中、後続車から追突され負傷してしまいました。そこで、加害者と示談交渉を行うこととなったのですが、当社の従業員と加害者との示談が成立した後も、当社の従業員は労災保険による保険給付を受けることができるのでしょうか。
回答
- 示談によって損害賠償請求権の一部又は全部を放棄した場合には、その範囲で保険給付を受けられなくなる。
解説
- 1. 労災保険給付と損害賠償請求との調整
- 労動災害の被災者(及びその遺族)は、その労働災害につき、労災保険に対して保険給付を請求できるほか、民事上責任のある第三者に対して損害賠償請求権を行使することができます。但し、この場合、両請求共に認められてしまうと、損害の二重補填が認められることとなってしまいますので、その調整が必要となります。
そこで、法は、政府は保険給付をした限度で、保険給付を受けた者が第三者に対して有する損害賠償の請求権を取得するとし、また第三者からの損害賠償が保険給付より先になされた場合にはその限度で保険給付をしないことができると規定したのです(労働者災害補償保険法 12条の4)。
- 2.示談した場合の保険給付の有無
- では、加害者から実際に損害賠償はなされていないものの、損害賠償請求権の全部を放棄又は一定額を支給することにより残りの損害賠償請求権を放棄する旨の示談が成立した場合、放棄した損害賠償請求額については、保険給付を受けることが出来るのでしょうか。
結論から申しますと、放棄した部分については損害賠償を受けたものとみなされ、保険給付を受けることは出来なくなります。
即ち、通達(昭 38.6.17基発687)により、労災保険の受給権者と加害者との間で示談が成立し、次に掲げる事項の全部を満たしている場合には保険給付は行われないこととされているのです。
(1) 示談が真正に成立していること
次のような場合には、真正に成立した示談とは認められない。
[1] 当該示談が錯誤、または心裡留保(相手方がその真意を知り、または知り得べかりし場合に限る)に基づく場合
[2] 当該示談が詐欺、または強迫に基づく場合(2) その示談内容が、受給権者の第三者に対して有する損害賠償請求権(保険給付と同一事由に基づくものに限る)の全部の填補を目的としていること
次のような場合には、損害の全部の填補を目的としているものとは認められない。
[1] 損害の一部について保険給付を受けることとしている場合
[2] 示談書の文面上、全損害の填補を目的とすることが明確でない場合
[3] 示談書の文面上、全損害の填補を目的とする旨の記述がある場合であっても、示談の内容、当事者の供述等から、全損害の填補を目的としているとは認められない場合
したがって、上記条件を満たした場合には、保険給付を受けることはできません。
- 3.上記通達に対する批判
- しかしながら、災害補償は労働者の生存権のために、災害によって労働者が被った損失を填補することを目的とするものであるから、補償を受けるべき者が、第三者に対する損害賠償請求権の一部又は全部を放棄した場合にも、現実に損失の填補がなされない限りにおいて、政府は補償を行わなければならないとする見解も有力に主張されています。
判例においても示談の効力を制限的に解する判決が現れ(大阪高判昭 39.12.21高民集17.8.635)、最高裁も上記通達の立場を維持しながらも、示談当時予想できなかった不測の再手術や後遺症が発生した場合にその損害についてまで、損害賠償請求権を放棄した趣旨と解すべきではないとするに至っております(最二小判昭43.3.15民集22.3.87)。
- 4.結論
- もっとも、実務においては、原則として上記通達を基準に判断されておりますので、依然として加害者と示談をする場合には慎重な判断が要求されるといえます。具体的には、示談を行う際には、少なくとも示談書に労災保険給付を行う予定である旨記載することが望ましいでしょう。